医療情報室レポート
 

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2010年5月28日  
福岡市医師会医療情報室  
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特 集 : オバマ大統領の医療保険改革
 

 2008年11月、「Change」をスローガンに掲げたバラク・オバマ氏が大統領選挙に勝利したことは、アメリカにとって文字通り歴史的な変化であった。政治不信に陥っていた多くの若者の足を投票場に運ばせ、暗黒の8年と呼ばれたブッシュ前大統領の共和党政権に明確な「NO!」の意思を示したのは、米国民の変化への期待の表れであった。
 オバマ大統領は就任以来、国内最重要の政策課題として、景気対策と金融安定化を掲げるとともに、医療保険制度を抜本的に改革し、医療保険の国民皆保険化のような新しい制度の創設を通じて、経済や社会システムを立て直そうとしている。医療保険改革に関しては、過去の政権でも、その試みが何度もなされたが、全て失敗に終わった経緯がある。それをオバマ大統領は就任から約1年後に、強力な指導力を以て既成の社会勢力を排し、医療改革の法制化を成し遂げたのである。
 今回は、アメリカの医療制度の特徴や医療制度改革に関連する政党の論争を交えながら、改革法案可決までの動きやその内容をまとめた。

医療保険改革法案が成立するまで

国民皆保険制度を導入していない先進国はアメリカ合衆国だけであり、国民皆保険制度導入は長らく民主党の悲願であった。クリントン政権時代1993年〜2001年にも皆保険は導入寸前まで漕ぎ着けたが、最後に廃案となってしまう。
2008年11月に当選したオバマ大統領も国民皆保険の導入を大統領就任以前から公言していた為、法案成立は米国中の関心の的であった。民主党政権は、国民皆保険に反対する勢力(民間医療保険業界、中小企業業界、共和党関連団体)に対して、支持を取り付ける働きかけを積極的に行った。
民間医療保険業界の中でも、を運営する保険会社は、自社の利益を増加させる為に患者が病院を受診出来ないよう誘導する傾向があるが、今回の改革において、この誘導が規制される可能性が高い為に改革に反対した。一方、4,600万人の無保険者を顧客として獲得出来る可能性もある為、民主党政権はこの点を以て反対を封じ込めようとした。
中小企業の経営者は、自社の従業員を医療保険に加入させる義務はない。中小企業業界は、今回の改革により保険料の負担義務という新たな経費負担増の可能性が高い為、基本的には反対した。一方、保険料分を補助金で補填する、税額控除を拡大するという案も提出され、一部の経営者は賛成に回った。
上下院議会では、無保険者を加入させるプランとして、新たに公的に運営される保険者を創設し、民間医療保険と競合させるという案が提出された。民主党は競合により保険料が抑えられ、政府支出を減らせる点で、この案に賛成したが、共和党は安価な保険料の公的医療保険者を創設すると、民間医療保険会社に不当な競争を強いることになるという点で反対に回った。
共和党も米国の医療費が先進諸国と比較して高く、改革の必要性を認識してはいたが、反対の立場を取ったのは、民間企業主体の医療保険市場に公的なものを導入することに対する根強い拒否反応や保守的思想に強く影響されているからである。
議会では、公的医療保険者を創設し、民間医療保険会社と競合させるか否かが争点となっていたが、共和党の強い反対と民間医療保険会社への影響を考慮して見送られることになった。
オバマ大統領の案で年間で約1兆ドル(90兆円)の財政支出を伴うことが明らかとなってきた頃より、米国民の反応が冷ややかなものとなり始めた。医療保険市場を国が支配することに対して「社会主義的」との意見も強くなり、昨年まではオバマ案に好意的だった世論も改革反対へシフトしていった。
2010年1月に行われたエドワード・ケネディ氏死去に伴うマサチューセッツ州上院の補選では、共和党候補が勝利し改革反対への機運が高まっていった。ちなみにマサチューセッツ州上院は民主党の牙城であり、共和党が勝利するのは1967年以来であったことも全米を驚かせた。
上院では2009年12月に医療保険改革法案は可決されていたが、法案が成立するまではマサチューセッツ州上院の補選の影響を大きく受けた。最終的にはホワイトハウスと業界団体、共和党の折衝・妥協により、2010年3月に下院でも僅差(219票対212票)で可決した。
〜乗数効果と消費性向〜
 今年1月に開催された参院予算委員会において、菅直人副総理・財務相が「自民党政権期の投資は1兆円の予算で1兆円の効果しかないやり方をやってきた。」と経済効果が低かったことを批判したところ、自民党の林芳正議員は「乗数効果のことを言っているのか」と反論し、子ども手当の乗数効果をただしたところ、菅氏は「おおむね0.7程度と想定している。」と子ども手当の支給額の「消費性向」について答えてしまい、林氏が続けて乗数効果と消費性向の違いについて言及すると、菅氏は言葉に詰まり審議がストップしたことは記憶に新しい。
 「乗数効果(multiplier effect)」とは、一定の条件下において消費・投資・政府支出等を増加させた際に、他の経済量にも波及的に変化をもたらし、結果的に増加させた額より大きく国民所得が拡大する現象を言います。投資が100円増加するとします。これが100円の生産物に変わり、売れることで100円の所得になります。次にこの所得の内8割の80円が消費されると仮定すると、80円を受け取った企業Aは、80円の所得が生まれます。さらにこの所得の内8割の64円が消費されると仮定すると、それが企業Bに64円の所得をもたらし、「所得の内の消費が再び所得になる。」という循環が繰り返されていきます。
 一方、「消費性向(propensity to consume)」とは、可処分所得の内、家計が消費に回す比率を言います。例えば、可処分所得が月30万円の家計が21万円を消費に回すと仮定すると、この家計の消費性向は21/30=0.7となります。一般に低所得家計の消費性向は高くなり、高所得家計の消費性向は低くなる傾向があります。
医療保険改革の主な内容
すぐに導入される内容
既往症によって保険加入を拒否することを禁止
26歳以下で無保険者は親の保険に加入
予防医療を保険会社に請求可能(既存加入者は2018年以降)
小企業(25人以下)については、企業が支払う医療保険の保険料の35%までを税控除
2014年以降に導入予定
年間所得3万ドル以下の家庭はメディケイド(貧困者向け公的医療保障制度)が医療保険を提供
年間所得が3万ドル以上、8.8万ドル以下の家庭は医療保険に加入することが義務付けられるが、年間所得の3%を超える部分は税控除
医療保険に入ることを拒否する国民に対しては年間所得の1%ないし95ドルの内、どちらか多い方の金額をペナルティとして課す
従業員50人以上を雇用する企業で医療保険を提供していない企業は従業員一人当たり2,000ドルのペナルティを課す
既往症があり、保険に入れない国民に対して「疾病にかかるリスクの高い被保険者の為の基金」を国が設置
なぜ医療保険改革が必要なのか?
アメリカの医療制度の特徴
アメリカの医療制度の特徴は次のとおりである。
(詳細は、医療情報室レポートNo.134「我が国から見たアメリカ医療の問題」に掲載)
(1)民間中心の医療保険
個人に干渉しない自己責任の精神と、連邦制で各州の権限が強いことが社会保障制度のあり方に影響を及ぼしており、医療保障・高齢者所得保障において民間部門の果たす役割が大きい。公的医療保障の対象は65歳以上の高齢者・障害者(メディケア:Medicare)と低所得者(メディケイド:Medicaid)に限定されている。
全国民を対象とした医療保障、公的皆保険制度が存在しない為、民間医療保険に加入するのが主流で、国民の6割がこの民間医療保険でカバーされている。よって、国民が加入している医療保険は、公的医療保障であるメディケア・メディケイドか、自己負担もしくは企業負担の民間医療保険であり、加入しない(できない)者は無保険者となる。
(2)国民の7人に1人が無保険
いかなる医療保険の適用も受けていない無保険者は人口の15%の約4,600万人(2007年)に達している。無保険者は法律上患者の診療が拒否できないER(Emergency Room:緊急救命室)を頼る者が多く、当然ながら無保険者は診療費の支払い能力に乏しい。診療費は州税や医療保険会社拠出の基金で賄われており、この状況は救急医療現場の混雑と医療費を増大させる原因となっている。
(3)世界一の医療費支出
全米の病院のうち15%程度は、株式会社による病院経営が行われており、経営難の病院を買収したり、採算の取れない診療科は閉鎖したり、患者の入院日数を強制的に短縮させたりと自社の利益と効率性を最優先する傾向にある。・
医療費を抑制する為、HMO(Health Maintenance Organization:健康維持組織)に代表されるような民間医療保険会社が医療へのアクセスや医療内容を管理・制限するマネジドケアと言う管理型医療保険が発達している。
保険料を100として、実際にどの程度が医療費として給付されるかを示す数字を「メディカルロス(医療損失)」と言う。保険会社はできるだけ患者の医療にコストをかけないようにし、支出を抑えることを目指す。アメリカの民間医療保険会社のメディカルロスは平均81で、一方メディケアは98であり、民間医療保険会社がいかに医療サービスに対しコストを抑えているかがわかる。
<参考文献> 砂田一郎著「オバマは何を変えるか」李啓充著「市場原理が医療を滅ぼす」・「続アメリカ医療の光と影」日本医事新報(No.4442〜4486連載)「オバマの医療改革」
<医療情報室の目>
 オバマ大統領は、政権発足当初より、医療保険改革を「待ったなし」の緊急事項として掲げ、1年以内の改革実現を宣言して、それを実行に移した。これは、歴代の大統領が成し得なかった「改革」として、アメリカの政策史上で革新的な意味を持つ。オバマ大統領が提唱する医療保険改革は、既存の民間医療保険と公的な保険制度を組み合わせた折衷的なものであるが、改革の柱となっているのは、人口の約15%を占める4,600万人(2007年)の無保険者をなくすこと、急増する医療費を抑制することである。アメリカの医療保険改革は、他の先進諸国が既に実現している国民皆保険を導入するものであり、それ自体は革新的な試みではない。
 全国民を対象とした医療保険改革を試みた最初の大統領である1930年代のフランクリン・ルーズベルト大統領の時代以降、アメリカの医療保険システムが抱える構造的問題はほとんど解決されておらず、歴代大統領にとって、医療保険改革は見果てぬ夢であった。それは、国民の意識の壁や議会の二大政党である民主党と共和党の鋭い政策対立も一因となっている。民主・共和両党の対立は近年ますます党派色を強めているが、その背景には、アメリカ社会の人種的・宗教的・文化的な対立があり、さらに、業界の利益を代弁するロビイスト達が、政府・議会に対する影響力を増大させていることにより一層先鋭化している。民主党のオバマ大統領も、先の大統領選における選挙資金の大半は、上述の利権集団・業界からの援助で賄った。オバマ大統領の医療保険改革は、民間医療保険会社・製薬会社等の利権集団・業界の既得権の壁と、「共助」よりも「自助」を優先しがちな国民の意識という二つの壁を突き崩すことから始まった。
 医療改革法案通過後の現状は、アメリカ国民の中に医療改革法の破棄を掲げる共和党の公約に共感する層が根強く残っており、オバマ大統領と民主党への逆風は強まっている。オバマ大統領の医療保険改革は幾度の廃案の危機を乗り超え法案成立までに至ったが、持続的に機能する制度実現に向けたアメリカの「Change」は始まったばかりだ。

 ※ご質問や何かお知りになりたい情報(テーマ)がありましたら医療情報室までお知らせ下さい。
   (事務局担当 工藤 TEL852-1501 FAX852-1510)
 

担当理事 原  祐 一(広報担当)・原村耕治(広報担当)・竹中賢治(地域医療、地域ケア担当)


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