医療情報室レポート
 

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2006年 9月 15日
福岡市医師会医療情報室  
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特集:日本の医療制度史

 昭和36年(1961年)の国民皆保険の実現から40年以上が経過した。「いつでも、だれでも、どこでも」安心して、同じ料金で貧富の差なく十分な医療を受けられる国民皆保険制度は、我が国の発展を国民の健康面から支えてきた。
 世界保健機構(WHO)の発表する健康達成度の各国比較では、日本人の健康寿命及び健康達成度の総合評価は世界一位、更に平均寿命は男女ともに日本人が最も長く、乳幼児死亡率の低さはトップレベルである。
 一方、医療保険制度をめぐる環境は皆保険達成時からは大きく変化し、少子高齢化の進展に伴う人口構成の変化、医学・医術の高度化等による医療費の増大が問題となってきた。
 現在の日本の社会の中では余りにも当然のこととして受け入れられている国民皆保険制度だが、国民の健康増進に大きく寄与してきたこの制度は今、大きな転機を迎えている。
 今回は本レポート100号を記念して日本の医療保険制度の成り立ちを概観し、医療制度の歴史を振り返ってみた。
  


保険制度の成り立ち

 
★日本の医療保険制度
  わが国の公的医療保険制度は職域を単位に構成された 「被用者保険」と地域保険である「国民健康保険」、及び75歳以上の高齢者を対象とする「老人保健制度」からなる。
以上により、日本の全国民は何らかの保険に加入している国民皆保険が達成されている。(例外は生活保護者等)

★医療保険制度の歴史
  日本の医療保険制度は、歴史的な経緯から各種の制度が分 立している。職域に於ける共済制度が先行して発達し、職域保険以外の一般住民には地域保険が実施された。

  医療保険の歴史は大正11(1922)年に制定・公布、昭和2(1927) 年に施行(関東大震災の影響等により5年後に施行)された健康保険法に始まるが、当時の健康保険法は対象を労働者本人のみとするなど限定的な運用であった。

  戦後、社会保障制度の一環として、医療保険を再構築する 機運が高まり、昭和33年に国民健康保険法を全面改正、昭和36(1961)年には国民皆保険が実現した。

  皆保険体制はこの後、昭和から平成に至る現在迄、社会・ 経済の変化に伴い様々な変革が加えられてきた。

  昭和40年代の高度経済成長期には
      国民健康保険7割給付(S43年)、●高齢者医療の無料化 (S48年)、●健保家族給付率7割へ引き上げ(S48年)
      高額療養費制度創設(S48年) 等が行われた。
日本の医療保険制度と被保険者 保険者
健康保険 組合管掌
健康保険
(組合健保)
健康保険の適用事業所で働くサラリーマン・OL
(民間会社の勤労者)
健康保険組合
組合管掌
健康保険
(組合健保)
健康保険の適用事業所で働くサラリーマン・OL
(民間会社の勤労者)
政府
法第3条第2項の規定による被保険者 健康保険の適用事業所に臨時に使用される人や季節的事業に従事する人等(一定期間をこえて使用される人を除く)
船員保険 船員として船舶所有者に使用される人 政府
共済組合 国家公務員
共済組合
国家公務員 各共済
組合
地方公務員
等共済組合
地方公務員等
私立学校教
職員共済組合
私学の教職員
国民健康保険 国民健康保険 健康保険法の適用を受けない農業者、自営業者、被用者を対象 市町村
国民健康
保険組合
医師、歯科医師、薬剤師、食品販売、土木など 各国保組合
退職者医療 厚生年金保険など被用者年金に一定期間加入し、老齢年金給付を受けている75歳未満等の人 市町村
老人保健 医療保険制度の加入者(被保険者・被扶養者)のうち、75歳以上の老人および65歳以上で一定の障害の程度にある人等は、医療保険制度の医療給付の対象から除かれ、老人保健の医療を受ける(但しH14/9/30迄に70歳の誕生日を迎えた人も含む) 市町村
※日本の公的医療保険制度は各種制度により皆保険を達成している。
 
昭和48年の石油危機から経済の低成長期が到来し、 保険財源の確保も厳しい状況となった。
  ボーナス対象の特別保険料を創設(S52年)した一方、●家族入院時の給付率を8割(S55年)とした為、更に運営が逼迫した。

高齢化も進んだことで、高齢者医療費を中心とした医療費の増加が顕著となった。
  老人保健法施行・高齢者医療費の無料化廃止、入院・外来時の一部負担を導入(S58年)
  健保本人1割自己負担を中心とする健保法改正(S59年)
  老人保健法改正(S61年)、国民健康保険法の改正(S63年)等、財政安定化を目的に行われた。

平成に入り、
  老人保健法改正で一部負担金が引き上げ(H3年)、 ●健康保険法改正で政管健保の国庫補助率・保険料率が引き下げ(H4年)、
  入院時食事療養費制度が導入(H6年) 等が実施された。

バブル経済崩壊後の長期不況で医療保険の財政事情も悪化した。近年では、
  被用者本人一部負担1割から2割へ引き上げ、外来の薬剤一部負担の導入(H9年)
  高齢者一部負担に月額上限付きの定率1割負担導入(H12年)
  高齢者一部負担金定率1割導入、被保険者本人一部負担2割から3割へ引き上げ(H14年)
  現役並みの所得がある高齢者の自己負担2割から3割へ引き上げ(H18年)
  等の患者負担増が行われ、今後も財政改善の為の制度改革(更なる患者負担増)が行われることが懸念される。

明治以前〜昭和前期の医療
 
江戸時代にあった国民保険制度の萌芽
   福岡の宗像地方には江戸時代(天保年間)から 「定礼(じょうれい)」と呼ばれる相互扶助制度があった。
 住民が米(組合費)を拠出して医師を雇う制度で、組合費は応能割・応益費の組み合わせにより徴収、受診時の一部負担も存在する等、今日の国民保険制度に通じる仕組みであった。


明治以前の医療
   現在の日本の自由開業医制度は明治以前の18世紀中頃に既に形成されていた。当時は漢方が主流 で、医師は別名「薬師(くすし)」と呼ばれ、診察料は形式上薬代として支払われていた。
 明治7(1874)年の統計では人口10万人に対する医師数は86.2で現在の半分程度であった。
(平成16年人口10万対医師数211.7)


明治維新による欧化政策
   明治維新を迎えると、医療に於いても欧化政策 がとられた。明治7(1874)年公布の「医制」には、将来的に西洋医学のみを公式に認め、医師になる為には国家試験に合格する必要があることが明記された。

漢方から西洋医学へ
   明治初期には急速な西欧化が図られたが、その 後、現実的な対応に変わった。
当時は、医師免許を西洋医学を学んだ者にだけ限定して与えれば、国民の殆どは医師に診てもらえなくなり、また、従来の漢方医の生活を保障する必要もあった。
 明治15(1882)年より医師免許は西洋医学を学んだ者にのみ交付されるようになったが、その前年迄医業で生計を立てていた漢方医に対しては、医業を続けることが許可された。


病院の導入
   明治以前には幕府の小石川養生所等 一部の例外を除き、病院の原型となるような公的な医療施設は我が国には皆無に等しかった。明治期になって西洋医学の教育・研究、戦傷者の治療、 伝染病や性病の隔離を目的として政府や個人の医師によって各地に病院が開設された。

国民にとっては
   明治になっても一般の国民は、病気を すれば町の開業医に受診し、医師から渡される薬に治療の大部分を頼るといった素朴な受療スタイルが続いた。
 受診料は一般に薬代として支払われ、医療保険が整備される迄は明確な料金体系はあまり用いられず、開業医師には「医は仁術」のなごりが見られた。


時代
区分
(西暦) 医療 (西暦) 主な出来事
明治 2 1869 医学奨励の布告、医師免許制度の方針打ち出し 4 1871 廃藩置県
7 1874 「医制」発布(東京府) 5 1872 初の全国戸籍調査
(総人口3311万825人)
19 1886 日本薬局方制定 12 1879 コレラ大流行で国内死者10万人超
22 1889 薬品営業並薬品取扱規則公布、薬剤師・薬局制度創設 24 1891 足尾鉱毒事件
23 1890 第1回日本医学会開催 27 1894 日清戦争(〜1904)
30 1897 伝染病予防法公布 33 1900 パリ万国博覧会
32 1899 第1回肺結核死亡者全国調査 (6万6408人) 35 1902 日英同盟
38 1905 鐘紡、八幡製鉄所共済組合設立 37 1904 日英同盟日露戦争(〜1905)
39 1906 医師法、歯科医師法公布 43 1910 日韓併合
大正 4 1915 医師、歯科医師、薬剤師取締規則制定 3 1914 第一次世界大戦勃発(〜1918)
5 1916 大日本医師会創立総会 (会長 北里柴三郎) 9 1920 国際連盟発足
8 1919 結核予防法、トラホーム予防法、精神病院法公布     ファシズムの台頭
9 1920 第1回国勢調査 (内地5596万3000人、外地2102万5000人) 12 1923 関東大震災(死者9万1344人)
11 1922 健康保険法公布      
昭和 2 1927 健康保険法全面施行(工場、鉱山、交通業等の適用事業所で従業員常時10人以上のもの) 4 1929 ウォール街株式暴落、世界恐慌へ
11 1936 健康保険組合連合会設立 6 1931 満州事変勃発
12 1937 保健所法公布、全国保健所網整備計画 7 1932 五・一五事件
13 1938 厚生省設置 8 1933 国際連盟脱退
国民健康保険法公布 (実施主体は、市町村・農業を単位とする任意設立の保険組合) 11 1936 二・二六事件
14 1939 職員健康保険法、船員保険法公布、健保法改正(家族給付開始) 12 1937 盧溝橋事件・日中戦争
15 1940 国民体力法公布、本格的な集団検診 14 1939 第二次世界大戦勃発
16 1941 医療保護法公布 15 1940 日独伊三国軍事同盟成立
17 1942 健康保険法改正(一部負担金制導入) 16 1941 太平洋戦争開戦
18 1943 薬事法公布 20 1945 終戦
19 1944 診療報酬単価に地域差導入      
  大正〜昭和前期の医療
     国民皆保険制度は昭和36(1961)年に達成されるが、戦前に於いても、社会保障関係の法整備が進められていた。
大正11(1922)年に制定・公布、昭和2(1927)年の健康保険法の施行により初めて労働者を対象とした公的な医療保険制度の整備がなされた。
当時の健康保険法は、大正期に盛んになった労働運動の中、労働者の生活の不安をなくすことを目的にドイツの労働者保険をモデルに制定されたものだが、 給付対象が被用者本人のみである点、現在の労災保険の傷病も対象とする点などの相違があるものであった。
 昭和13(1938)年には青年男子の結核予防を大きな目的として、自営業者、農業従事者を対象とする国民健康保険制度が創設
(昭和33(1958)年全面改正)された。無論これは、兵役不適合者を減らすことが主目的であった事は否めない。

 これらは、現在の制度と比較して、内容・対象者数・事業規模等様々な点で不十分なものであったが、戦後の制度設計の原型 として、その後の我が国の医療保険制度に影響を与えていることは無視できない。

また、政府が医療の整備を進めるにあたって、戦争という非常事態は大きなファクターを占める。
徴兵した兵隊の健康状態改善への軍部の要求が高まるのを受け、昭和13(1938)年に厚生省、昭和17(1942)年には日本医療団が 設立された。日本医療団の傘下には殆どの病院が移管され、更に結核療養所の新規開設と無医村の解消が目標として掲げられた。

昭和(戦後)の医療
 
戦後の復興と基盤整備
   第二次世界大戦は、我が国に約185万人の人的犠牲と国富の損失をもたらした。
 戦後の社会保障制度の構築は、新たに制定された日本国憲法を基本に、GHQの強力な指導の下、戦後復興の一環として進められた。
 昭和25(1950)年厚生省予算の46%は生活保護費で、当時の全国民の2.5%(40人に1人)約200万人の被保護者の生活を支えていた。


国民皆保険体制の背景
   昭和30(1955)年に始まった神武景気から石油危機迄の20年間に、我が国の経済は年平均9.2%という高い成長率で急速に発展した。
 昭和31(1956)年版経済白書は「もはや戦後ではない」と宣言、その12年後にはGNPが世界第3位の規模となる等、我が国は「経済大国」として戦後世界に揺るぎない地位を確立した。
 昭和30年代の高度経済成長による国民の生活水準の向上に伴い、一般の人々が疾病や老齢による貧困状態に陥ることを防ぐ防貧施策の重要性が増し、漸く全国民対象の社会保障制度確立の機運が盛り上がった。


国民皆保険体制の達成
   昭和30年代の初め、農業従事者、自営業者や零細企業従業員を中心に、国民の3分の1に当たる約3,000万人が医療保険の適用を受けない無保険者であった。
 その為、被用者保険に加入していない人は全て国民健康保険に加入することを義務づける新しい国民健康保険法が昭和33(1958)年に制定され、昭和36 (1961)年には全国市町村で国民健康保険事業が開始、「国民皆保険体制」が達成された。


各種給付の充実・改善
   昭和40年代、高度経済成長により国民の生活水準が向上するとともに生活環境関係の社会資本の不足や公害、社会保障の水準の低さ等が課題となった。
 医療保険の制限診療の撤廃や給付率の改善等、経済成長に伴う税収増や社会保険料の収入増といった財源に支えられ、この時期は制度の充実に力が注がれた。


高齢化社会の到来と福祉元年
   昭和45(1970)年には高齢化率が7%を超え、国連の定義による高齢化社会に入った。
 昭和48(1973)年、老人医療費支給制度の創設により、70歳以上の高齢者医療費の自己負担無料化が始まった。医療保険制度では健康保険の被扶養者の給付率の引上げや高額療養費制度の導入等制度拡充が行われた。(福祉元年)


社会保障費の拡大
   社会保障制度の拡充・発展により、国の一般歳出経費である社会保障関係費もこの期間に急増した。
 昭和30(1955)年度には国家予算の約10%(約1,000億円)であったが、昭和50(1975)年度には約18.5%(39,282億円)と増大した。


時代区分 (西暦) 医療 (西暦) 主な出来事
昭和 戦後の再建と基盤整備 22 1947 健保法改正(業務上傷病に対する給付の廃止) 21 1946 日本国憲法公布、農地改革
労働者災害補償保険法制定 22 1947 教育基本,労働基準法制定、 民法改正
23 1948 国保法改正(市町村公営原則-任意設立強制加入) 25 1950 朝鮮戦争(特需景気)
社会保険診療報酬支払基金法制定 30 1955 神武景気
国家公務員共済組合法制定 27 1952 サンフランシスコ平和条約 日米安全保障条約
28 1953 健保法改正(給付期間を3年間に延長)
日雇労働者健康保険法制定 31 1956 日本が国連に加盟
私立学校職員共済組合法制定 34 1959 岩戸景気
29 1954 政管健保に初めて国庫負担導入 35 1960 国民所得倍増計画 安保闘争
31 1956 公共企業体職員等共済組合法制定
32 1957 国民皆保険計画決定 37 1962 全国総合開発計画
33 1958 国保法全面改定(国民皆保険の推進、被保険者5割給付) 38 1963 ケネディ米大統領暗殺
36 1961 国民皆保険の実現 39 1964 OECD加盟
東京オリンピック開催
東海道新幹線開業
国民皆保険制度の充実 37 1962 社会保険庁設置、地方公務員等共済組合法制定
38 1963 国保法改正(世帯主7割給付達成) 40 1965 米軍ベトナム北爆開始
療養給付期間の制限撤廃 41 1966 いざなぎ景気
42 1967 健保特例法制定(薬剤一部負担金創設) 43 1968 GNP世界第3位に
43 1968 国保7割給付完全実施 44 1969 アポロ11号月面着陸
44 1969 健保薬剤一部負担金の廃止 45 1970 大阪万博開催
47 1972 老人福祉法の改正(老人医療無料化、翌年施行) 47 1972 沖縄返還
日中国交正常化
48 1973 健保法改正(家族給付等7割に引き上げ、高額療養費制度創設、政管健保国庫補助定率化) 48 1973 第1次石油危機
ベトナム戦争終結
制度の見直し 52 1977 健保法改正 (ボーナス対象 特別保険料創設) 51 1976 ロッキード事件
55 1980 健保法改正(入院時家族給付8割に引き上げ、標準報酬等級表上限の弾力的改定、保険料率の上限改定) 53 1979 米中国交樹立
57 1982 老人保健法制定 56 1981 国際障害者年
日米貿易摩擦
59 1984 健保法改正(被保険者本人定率1割負担導入、特定療養費創設、高額療養費改善、退職者医療制度創設) 60 1985 科学万博つくば85
日航ジャンボ機御巣鷹山に墜落
61 1986 老人保健法改正 (一部負担改定、加入者按分率引き上げ、老人保健施設創設) 62 1987 JR発足
バブル景気
63 1988 国保法等改正(高医療費市町村の運営安定強化、保険基盤安定制度強化、高額医療費共同事業拡充) 64 1989 昭和天皇崩御、元号が平成に 消費税創設
  制度の見直し
     昭和48(1973)年の石油危機により、戦後初めて経済成長率がマイナスを記録した。
社会保障制度はインフレに対して給付水準を合わせていくため、年金や医療保険の診療報酬、生活保護制度の生活扶助費等の高率改定が行われ、社会保障関係費が急増した(昭和49(1974)年度 診療報酬改定36%引上げ,生活扶助基準20%引上げ等)。
 その為「財政再建」が当面の課題となり、昭和55(1980)年には第2次臨時行政調査会が設置されて歳出の削減・合理化が進められ、老人医療費支給制度や医療保険制度等の見直しが進められた。

平成の医療
 
1990年代の医療保険制度改革
   昭和58(1983)年の老人保健制度の創設と昭和59(1984)年 の健保法改正により、それまでの医療費の急騰はある程度抑制できたが、それでも国民医療費は毎年1兆円規模で拡大し、経済の低成長が定着する中、医療保険財政の安定を図る為の法改正が毎年 のように行われるようになった。


少子高齢化の進展
   1980年代頃から高齢社会に対する取組みが大きな課題となってきた。
 我が国の高齢化の特徴は出生数の急激な減少と平均寿命の伸長等から短期間に高齢化が進み、高齢化社会の定義である高齢化率7%から倍の14%になるのに24年しか要しなかった。
 高齢化と合わせて平成元(1989)年には合計特殊出生率が「1.57人」と戦後の最低値を記録した。
(平成17(2005)年には1.25人と減少を続けている)


高齢化への対策
   高齢者の保健福祉分野のサービス基盤の拡充の為、 平成元(1989)年に高齢者保健福祉推進十か年戦略(ゴールドプラン)が策定された。ゴールドプランでは在宅福祉サービスや施設サービスの具体的な目標値を掲げ、1990(平成2) 年度から平成11(1999)年度迄の10年間に計画的に整備が進められた。平成6(1994)年度には計画の見直しが行われ、平成7(1995)年度からは新ゴールドプランが実施された。

介護保険制度発足
   老後の最大の不安要因である介護問題に対応するため、高齢者等の介護を社会全体で支え、利用者本 位の総合的な介護サービスを提供し、多様な供給主体の参入による質的向上を図る等の観点から、平成6(1994)年に新しい介護システムの構想が検討された。
 その結果、平成9(1997)年に介護保険法が制定、平成12(2000)年から介護保険制度が発足した。


時代区分 (西暦) 医療 (西暦) 主な出来事
平成 少子高齢化に対応する制度見直し 2 1990 国保法等改正(保険基盤安定制度確立、国庫助成拡充、財政調整機能等) 2 1990 統一ドイツ誕生
株価暴落始まる
3 1991 老人保健法改正(一部負担改定・物価スライド導入、介護に着目した公費負担割合引き上げ、老人訪問看護制度創設) 3 1991 湾岸戦争
雲仙普賢岳で大規模火砕流
4 1992 健保法等改正(政管健保中期財政運営方式採用、出産関係給付改善) 4 1992 バルセロナオリンピック
6 1994 健保法改正(付添看護・介護に関わる給付見直し、在宅医療推進、入院時食事療養費創設、出産育児一時金創設) 5 1993 55年体制崩壊
記録的冷夏で米不足
7 1995 国保法等改正(保険料軽減制度拡充、保険基盤安定制度に関わる暫定措置、高額医療費共同事業拡充、国保財政安定化支援事業延長) 7 1995 阪神淡路大震災
地下鉄サリン事件
9 1997 健保法等改正(医療保険福祉協議会創設、被用者本人一部負担2割へ、外来薬剤一部負担導入、老人医療一部負担改定、国保基盤安定制度に関わる国庫負担段階的増額) 9 1997 消費税5%に
ダイアナ元英皇太子妃事故死
酒鬼薔薇事件
10 1998 国保法等改正(退職者に関わる老人保健医療費拠出金負担見直し、老人加入率の引き上げ、診療報酬不正請求防止に関する見直し、保険医療機関病床指定等に関する見直し) 10 1998 郵便番号が7桁に
長野オリンピック
12 2000 介護保険制度発足 健保法等改正(老人定率1割負担) 13 2001 9.11同時多発テロ
小泉内閣発足
14 2002 健保法等改正(被用者本人3割負担、老人定率1割負担徹底、老人医療対象年齢・公費負担割合引上げ) 15 2003 イラク戦争開始
SARS世界的に流行
18 2006 健保法等改正(高齢者自己負担増、高齢者医療制度の創設、介護療養病床廃止、生活習慣病対策等) 18 2006 平成18年豪雪
北朝鮮日本海にミサイル発射
※参考文献
 遠藤久夫・池上直己『医療保険・診療報酬制度』勁草書房(2005)
 池上直己・J.C.キャンベル『日本の医療』中公新書(1996)
 厚生労働省『平成11年版 厚生白書』(1999)
 幸田正孝・高久史麿・坪井栄孝・三浦文夫『WIBA2001年版』日本医療企画(2001)
  90年代後半〜2000年代の医療制度改革
     バブル景気崩壊後の低成長経済下における財政事情の悪化の中、 90年代後半からの医療制度改革は、増大する医療費と保険財政の悪化を防ぐ制度運営安定化への努力を全面に押し出してきた。
 平成9(1997)年の健康保険法等の改正では、被用者保険本人一部負担2割への引き上げ、薬剤一部負担金導入、政管健保保険料の引き上げが行われた。
 その延長上にある平成14(2002)年の改正では各制度及び世代を通じた給付と負担の見直しが行われ、被用者本人の一部負担を3割へ統一、また、高齢者の完全定率1割負担が行われた。
 平成18(2006)年の医療制度改革法は、現役並みの所得(夫婦2人世帯で年収約520万円以上)がある70歳以上の負担が2割から3割 に引き上げられる等、高齢者への負担増を始め、入院日数の短縮、 生活習慣病予防の徹底等で医療給付費の抑制を図る内容となっている。

<医療情報室の目>
★医療制度に完全なものはない
 日本の医療制度も多くの問題をはらみながら運営されているのであるが、他の国の制度と比較した場合には、利点が多いことを認める必要がある。たとえばアメリカの医療は先端医療のみを見ると世界に冠たるが、一方で4000万人以上の無保険者を生み出し、医療保険に入っていても保険料の格差による医療の大きな違いが存在するのである。イギリスは全国民平等の公営医療であるが、何ヶ月もの治療待ち患者(日本の3時間待ちどころではない)が常に政治問題となる国である。ドイツは社会保険の発祥国であるが、保険料は高く、多数の移民には社会保障が届かないなどの問題も抱えている。このように、他の国々の医療制度は日本の何倍もの問題をはらんでいるのである。
 多くのデータからも日本の医療制度は世界で最も優れていると評価されている。無論、この制度を支えている理由として、日本には移民があまりいない、所得格差もあまりなく、ほぼ全員が日本語を話せるなどの有利な点がある。これらの日本特有の利点を無視するのではなく、有効に活用することが政治・行政の仕事であろうと思う。
 しかしながら、これらの利点を破壊する恐れのある制度改革が進行している。小泉内閣の「改革なくして成長なし」「官から民へ」「国から地方へ」の号令のもと、経済財政諮問会議や規制改革民間開放推進会議による市場経済原理主義とグローバルスタンダードに基づいた構造改革がそれである。医療においては財政再建のもと、医療費抑制策が進められ、患者負担については平成14年に高齢者の自己負担が1割となり、平成15年には被保険者本人の自己負担が3割に引き上げられた。そして、同年、高齢者も現役並み所得者には2割負担となり、平成18年10月からは3割負担になるなど、自己負担額は著しく引き上げられている。医療機関側に関しては、診療報酬改定で平成14年にマイナス2.7%、平成18年にマイナス3.16%の減額となるなど、経営を揺るがしかねないほどの減額となっている。
 本年7月に閣議決定された「骨太の方針2006」では、今後5年間に一般財源の社会保障分野で1.1兆円の削減案が盛り込まれており、今後も利用者負担・国民負担が進んでいくことが懸念される。
 小泉内閣が進めてきた市場経済原理主義がもたらす自由競争によって日本の経済は一見、回復しつつあるようにみえるが、所得格差の拡大、地域による経済格差、大企業と中小企業の格差など多くの「格差」を生み出している。これらの格差の拡大と2005年から始まった人口減少に伴い、国民の将来に対する不安は増大している。また、小泉内閣による規制改革はライブドアの粉飾決算事件、村上ファンドのインサイダー取引事件、耐震偽装事件なども生み出してきたことも忘れてはならない。
 これらの規制改革の源となっている「新自由主義」は1970年代後半から1980年代にかけてレーガンやサッチャーによって始まったが、自由主義の過度な進行による所得格差の拡大は社会不安のもっとも大きな要因であり、資本主義社会そのものを崩壊させる原因とも言われ始めている。われわれの立脚する資本主義社会の健全な発展のためには、所得、医療に関するセーフティーネットは必須であり、多くの問題があるとはいえ「皆医療保険制度」、「生活保護制度」、「皆年金制度」は維持していく必要があろう。矛盾や問題は一つずつ地道に解決していけば良いのであり、一気に変更すると根幹を崩しかねないことを肝に銘じるべきであろう。

 ※ご質問や何かお知りになりたい情報(テーマ)がありましたら医療情報室までお知らせ下さい。
   (事務局担当 立石 TEL852-1501 FAX852-1510)
 

担当理事 原  祐 一(広報担当)・原 村 耕 治(地域ケア担当)


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